ワンピースを通してみる運命愛──白ひげとエース
なぜこのテーマ?
最近、哲学について深く学んでいる。(といっても、説教できるほど詳しくもない)
特にストア派やニーチェの思想に影響を受け、自分の哲学を体系化しようとしている中で、「運命愛」について考えたときに、白ひげとエースの生き様が頭をよぎった。
彼らは、まさに 超人 だったんじゃないか、と。
(※いや実際に能力者だし超人ではあるけれど、ニーチェの文脈でいう超人であることは念のため補足しておく)
「運命愛」とは?
> 永劫回帰の法則を受け入れるとともに、この世のあるがままの運命を受け入れ、そしてそれを愛するということ。──Wikipediaより
※永劫回帰とは、この世界は、全てのもの(大いなるものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方 ※つまりこのブログを執筆して公開することも、読者諸君がこの記事にたどり着きこれを読むのも、すべて等しく永遠に繰り返されるということである ※エンジニア的に言えば「冪等性」という考え方に似ているかな~
白ひげの「馬鹿な息子をそれでも愛そう」──究極の運命愛
頂上戦争で、海軍は「白ひげを殺せばすべて終わる」とそそのかし、白ひげの傘下にいたスクアードを巧妙に操った。
赤犬はスクアードに「白ひげは海軍と密約を交わしていて、傘下の海賊の命と引き換えに白ひげ海賊団の本隊は無事でいられる」などと嘘を吹き込み、彼を白ひげに反旗を翻させた。
結果としてスクアードは 自らの信じてきた父を裏切り、剣を突き立てた。 (裏切りというより、赤犬に騙されたというほうが正しいかな)
その瞬間、白ひげはどうしたか。
怒りに任せてスクアードを処刑することもできた。裏切りを責めることもできた。自分がなら問答無用で殴り飛ばしていただろう。ばかやろう、戦争中だぞ。
でも、白ひげは 「馬鹿な息子をそれでも愛そう」 と言ったのである。
この言葉には、「ああ、そういうものか」という、単なる無常的な受け入れを超えた 「愛していたが故の決断」 があったのではないかと感じる。
「裏切られたこと」自体ではなく、「そうなってしまったこと」すらも 受け入れた。
もしかしたら自分の行動が、無意識のうちにスクアードに疑念を抱かせたのかもしれない。だったら、その「結果」すらも 自ら引き受ける ことを選んだのではないだろうか。
白ひげは、この瞬間 全てを受け入れ、何があっても父親であることを「全う」し、最大限の愛を「与えた」
彼の生き様そのものが、すべてを愛し尽くす運命愛の極致だった。のかもしれない。
もしかしたら、そんな深いことはなくて彼はただ 「親父」 で在りたかっただけかもしれないが。
でもそれは、彼がどんなことがあろうと彼であろうとした、という生き様の証明であるともいえるのではないか。
エースの「愛してくれてありがとう」──ニヒリズムの超越
エースの最期の言葉、それは 彼の人生の結論 だった。
赤犬が「所詮・・・先の時代の”敗北者”じゃけェ・・・!!!」と挑発したとき、エースは 聞き捨てならなかった。
戦いの最中、聞こえなかったふりをして走って逃げていれば、振り返らずに走っていれば、生き延びていたかもしれない。
でも、そうしなかった。
彼は、戦場で生き延びることよりも 親父を侮辱されたことのほうが許せなかったのだ。
彼は赤犬との激闘を繰り広げた末、ルフィをかばうように赤犬に背中から灼熱の拳を貫かれ、そうして命を終えるのである。
最期の言葉にたどり着くまでに、必ずと言っていいほど拾わなければならないセリフがいくつかあるので引用する。
> ”「そうだな・・サボの件と・・お前みたいな世話のやける弟がいなきゃ俺は生きようとも・・思わなかった・・・誰もそれを望まねえんだ・・・仕方ねえ・・!」”
> ”「俺がほんとうに欲しかったものは・・・どうやら”名声”なんかじゃなかったんだ・・・・・・俺は”生まれてきても良かったのか”欲しかったのはその答えだった」”
エースは昔自分の人生というものに対して、悲劇を見ていた。
彼の人生は、世界・民衆の敵で憎むべき対象である海賊の、しかもその時代を始めた海賊王ロジャーの息子として生れ落ちることで始まったから。
故に彼は、自分の人生を愛せなかった。自分が生まれた意味を肯定できなかった。
しかし、ルフィやサボは兄弟として 3人で盃を交わし、彼を愛してくれた。
白ひげは 血の繋がりのない自分を息子と呼び、受け入れてくれた。
彼らは 家族のように愛した のではなく、 家族として愛した この2つには明確な違いがあると思っている。
だからこそ、エースの人生は 「肯定できるもの」「愛せるもの」に変わった 。
最期の言葉は、大声も出せないほどの弱さでルフィに託された
> ”「・・・オヤジ・・・みんな・・・!そしてルフィ・・・・!今日までこんなどうしようもねえ俺を鬼の血を引くこの俺を・・・愛してくれて・・・ありがとう!!」”
その後まもなく、エースはルフィの腕の中で息絶える。つまり、 彼の「最期の言葉」は、ルフィによって、未来へ繋げなければならない、託された使命になった。
エースは、「託した」 のである。自分の想いを、そして未来を。
託すことによって、自分の腕の中で最愛の兄を亡くすという耐え難い体験をしてしまうルフィに、立ち止まらず前に進めと「使命」を与えた。
悲劇であった自分の人生を愛し、託すこと 彼の人生は、そうして 運命愛に昇華した。
「ニヒリズムを超越すること」と「運命愛」の関係
ニヒリズムを超越した先に、運命愛がある。多分。
ただ、超越しろと言われても簡単な話ではない。
現に時間というものは非常に身勝手で、あれやこれやと余計な後悔や躊躇をしている間に勝手に前に進んでしまうし、どうせなら受け入れるしかなくないか?とも思う。それもまた超越として1つの形なのではないかとも思っている。
いや、そう思いたい。
人生を「そういうもの」と 受け入れたその先
「そういうものだから」「仕方ない」だけではなく、その「そういうもの」だからこそ、愛せるものに変える。
過去の悲劇も、喜びも、「今の自分が存在する理由」になっていると認識すること。 そうしないと、自分の人生は全部無意味だったと思うしかなくなる。
我々は 一見意味のないものからも意味を見出すしかないのだ。それは一見非生産的に見えるだろう、だけど、それでいい。迷い葛藤し喜び悲しむことが、人間であるから。
その思考の先の先、全てを受け入れた先に、 ニーチェが示した「超人」 がいるのではないのだろうか。
自分の哲学の中で「運命愛」はどこに位置する?
自分の中で運命愛は、 感謝や総決算 に値する。
ミクロな視点で言えば、「あの時の自分、ありがとう。おかげで今がある」という感覚。
マクロな視点で言えば、 「全うし、与え、託し、繋げ、広げる」 ことを積み重ねた先にある 「手放しすことを繰り返し最期に残った自分」 それ自身を愛せるかどうか。
それが、自分の人生の総決算 になる。
読者に伝えたいこと
白ひげやエースのように生きろ、なんて偉そうなことは言わない。し、言えない。自分もまだまだ未熟であるからだ。
ただ、この記事にたどり着いた読者諸君は 「そういう人生」 になるように、自分の人生を創っていくことを意識することができる。
実際に自分も、ニーチェの「永劫回帰」を知ってから、人生は劇である と捉えるようになった。
自分はキャストであり、観客でもあり、そして監督でもある と。
劇は一人芝居では成り立たず、様々な背景をもつ他者と共演することで成り立つ、と。
自分が人生を終えた後、その人生を劇として干渉する権利を与えられたとして、そこに自分しかいなかったらどう思う?自分は退屈で仕方がない。
何年分見るのかわからないし、何分の劇か知らないけど、同じ顔しか出ないのは退屈でつまらない。
どうせ何度でも同じように繰り返すなら、監督である自分が創るその劇は「無限に満席にできるもの」にしたい。
孤独じゃ何も生み出せない。人を集めたとて喜劇だけでは薄っぺらい。逆に悲劇だけでもつまらない。
喜劇、悲劇、平穏、不穏、、、様々なものが絶え間なく押し寄せてくる「人生」というカオスの中で、いかに 味のなくならない、何度でも楽しめる劇 を創るか。
それが 自分の哲学 であり、「運命愛」の本質 だ と、自分は思っている。今のところは。
実は自分の哲学には「繋がり」というニーチェとは真逆の要素が絡んでいるのだが、もし明日戦争が起きて世界が絶望に包み込まれてしまったとき、「中途半端に繋がるからこうなるんだろ~~?」と手のひらを返す自分もいるかもしれない。
未来のことはわからない、だがらこそ、今見出している使命を全うしたいと思う。
自分の哲学については、他の記事でも解説していこうと思う。
興味があれば、ぜひ。
おしり。