カラオケの音はデカければデカいほどいい。なぜならショーペンハウアーがそう言っているからだ。

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※注意:この記事は完全なフィクションである。

筆者はショーペンハウアーを特に深く読んだわけではないし、カラオケは常に適切な音量で楽しんでいるし、実際に店員を哲学で論破したりはしない。絶対にしない。


異論は認めない

カラオケの音量は、デカければデカいほどいい。

これは冗談ではない。もちろん感情論でもない。疑う余地など存在しない。

なぜか?なぜなら哲学者ショーペンハウアーがそう言っているからだ。

ショーペンハウアーによれば、「音楽は世界の意志を直接的に表現する芸術」 だという。

つまり、カラオケの音がデカければデカいほど、世界そのものの意志が強烈に俺の鼓膜に直接叩き込まれる。
デカければデカいほど真理に近づき、デカければデカいほど宇宙の中心になれる。

カラオケの個室に入るとまず、迷わず親機の音量のつまみを右に回し続ける。

店員がやってきて 「お客様、音量を少し下げていただけますか?」 と言ってくるかもしれない。

そんな店員にこう告げる。

「お前はショーペンハウアーを読んだことがあるのか?」

おそらく店員は困惑し黙るだろう。なぜならショーペンハウアーを読んでいるカラオケ店員が存在する確率なんて極めて低いからだ。

え?ショーペンハウアーを読んでいた店員がいたらどうするか?

「ショーペンハウアーが言っているんだ。音量はMAXにしなければならない。君もそう思うだろ?」

店員が真の賢者であるならば、これで全て伝わるだろう。

音量がデカいと起こる現象についての哲学的考察

そんなものは存在しない。

音量がデカいということと、その事実。それだけで十分だ。

あえてこじつけるのであれば 音量がMAXになると、世界と俺が完全に融合する。歌が上手いか下手かなんて、もはや些末な問題でしかなくなる。

鼓膜が震え、生きていることを実感する。

周囲の人間の 「ねぇ…ちょっと音大きくない…?」 という疑問は、宇宙の真理の前では無意味だ。

なにより、大音量が脳を直接揺さぶり、「俺、実はめちゃくちゃうまくね?」という錯覚を生む。

現実を直視したいか?したくないだろう。混沌に満ちた世界を生き抜くうえで己を騙す・錯覚させることは必要だ。

音量が小さいカラオケとは何か? それは「カラオケボックス」ではない。ただの「監獄」だ。

小さな音の中で己の歌声を直視すると、人は己の無力さを知る。そんな事実など誰も求めていないし、知りたくもない。

人間は愚かな生き物だ。だからこそ音のデカさによって世界と一体化し、自分の声が最高だという錯覚で幻想を楽しむべきなのだ。

音楽制作におけるマスタリング工程で海苔のような波形を目指して音作りをするのは同じ理由だ。音圧があればあるほど、音楽はより完璧に近づく。

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音量MAXがもたらす自由

ライブ会場、あるいは過去に自分が言ったライブやフェスを想像してほしい。人々はなぜ叫び、暴れ狂うのか?

答えは決まっている、音がデカいからである。

大音量こそが人を自由にし、抑圧された魂を解放する。

音量を下げるという行為は、自らの魂を牢獄に閉じ込める行為である。「音を下げよう」という人間がいたら、そいつはお前を監禁しようとしているのと同じである。

だから俺は言う。

「音量を下げるな、上げろ。」

「ショーペンハウアーを読んだことあるか?ないなら読め」なんて問答は必要はない。音を上げろ。今すぐに。
難しい哲学書を読むのが苦手なら、カラオケに行ったときは音量MAXにして歌え。

それが実践的哲学であり、真の自由だ。

結論

カラオケの音量はデカければデカいほどいい。

なぜならそれが、ショーペンハウアーが示した世界の意志であり、自由であり、真理だからだ。

真理を前にして迷うことはない。迷っている暇があるなら、音量を上げろ。人生は一度きりだ。

音量を、上げろ。

おしり。


※大事なことなのでもう一度

この記事はあくまでフィクションであり、カラオケでは常に適切な音量を守っているし、店員に哲学を押し付けたりもしない。ショーペンハウアーもきっと適切な音量を推奨すると思う。多分。