「お金で買える幸せ」と「お金で買えない幸せ」

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なぜこのテーマ?

2025年3月8日深夜0時過ぎ、デリバリーで倍ビックマックLLセットを頼んだ。

別に晩飯作るのがめんどくさいなーとか、今日は金曜だからだらけちゃお~とか、特別な理由があるわけじゃない。
ただの怠惰である。なんとなく気分でスマホひとつで注文して、家でダラダラしながら食べたかっただけである。

そうやってポテトをもぐもぐしているわけだが。それだけのことなのに、なんでこんなに幸せなんだろう? と何ともまぁ平和ボケした疑問を持ったわけで。
これって「幸せ」ではあるんだけど分類すると 「お金で買える幸せ」 だよなー、と。

そんなことに気づいてしまったのが、このテーマの始まりだった。

じゃあ、その逆にある 「お金で買えない幸せ」 って何だ?

そうやって、またひとつくだらない哲学的な問答が始まってしまった。しかしポテトうめ~。こりゃ、すんばらしい。

お金で買える幸せ

「お金で買える幸せ」の代表格としてまず思うのは、快適さとか便利さとかのシンプルな贅沢さ
お金さえ払ってしまえば確定で得られる満足。そして、それらは短時間で消化されるという特徴を持つ。

食べ物、家具、住まい、服、移動時間の短縮、娯楽や刹那的な快楽…
そのいずれもが、金を出せば確実に手に入る。「ラクで、刺激的で、最高な体験」 がそこにある。

深夜に家から一歩も出ず、スマホでポチってホクホクのハンバーガーとポテト、そんでもって大好きなコーラが届く。

運ばれてくるのを待つ時間ですら、毎月金を払って広告を無しにしているYouTubeを見て時間を浪費するわけだ。

この 「対価を支払い不便を取り除いて得られる贅沢」 こそが、お金で買える幸せの象徴だと思う。

まったく…テクノロジーというものは偉大である。そんなことしたら人類全員怠惰になってしまうではないか、全く。

その技術の進歩を称えて、グリフィンドールに10点あげよう。

お金で買えない幸せ

じゃあ、逆はなんだ、と。

「スマホをポチーでマクドナルドが届く」「金を払えば広告が見えなくなってストレスが減る」の逆である。

それは、 物質的な意味合いを持たないものが多い と感じる。

自分のエピソードになぞらえるのなら、偶然の出会いが挙げられる。

2018年の秋冬頃、とあるベンチャー企業の代表がTwitterで 「渋谷でランチしてくれる人募集!!」 って言ってたのを見て、その場の勢いでDMかなんかをしてコンタクトをとった(当時はbosyuとかだったかな…覚えてないな…)

運よく返事が返ってきて、渋谷のスペースタワーにある「権八」という店でランチをした。今でも鮮明に覚えている。(てかあの店今でもあんのかな…)

そこから人生が大きく変わった。いろんな経験をさせてもらった。
その過程で色んな失敗もしてきた、けどその失敗すらも許容されて、さらなる挑戦の機会も与えてもらって、それなりの成果もあげられた。と、思っている。

あの経験は今の自分の根本を作るのに欠かせない大事なシーンであるといえるし、そこで経験した苦楽含めてすべて、金じゃ絶対に買えない幸せだったと断言できる。

あとは、愛犬と愛猫と家でだらだら過ごす時間とか。
なんの生産性もない、ただただそこにある空気感とか。
シンプルにこの環境や、この時間や、この空間。

それらは金で得られるものじゃない。と思うわけだ。

いや、もちろんそれらを得るためにはお金が必要ではある。もちろん愛猫、愛犬をお迎えするのにも生体費用は必要だし、家に住むのだってお金を払わなきゃいけない。

けど、そういう話をしたいわけじゃない、そういう物質的な意味合いではない。

そうして得られたものを経由して得られた空気感や思い出などを含めた、目に見えないもの、手に触れないもの、偶然性のあるもの。物質的な意味合いではなく、心の中に刻まれるもの

「お金で買える幸せ」とは対照的に、人生という長い時間の中に刻まれ、消化されるものではない。

それらはすべて、お金では手に入らない幸福だと思う。

「お金で買えない幸せ」を維持するために意識してること

微妙に売れてる処世術や自己啓発系の本のタイトルみたいに見えてちと胡散臭いが、「お金で買えない幸せ」を維持するためにすることを書いてみる。

それは、たぶん 「自分という存在が他者に忘れられないようにすること」

最近の話で言うと、「高校の同期から結婚式の招待状が届いた」 という話がある。シンプルに嬉しかった。
その人の一生に一度しか行われないイベントの参列者に、居てほしいと思ってもらえること。

これはまさに「忘れられていないこと」が顕著にあらわれている例であり、「お金で買えない幸せ」を感じた最近の例である。

仲良くしたい人には定期的に連絡を取るし取りたいし、存在感を出し続ける。

見返りを求めない純粋なギブだってする(なんかすごく恩着せがましいと感じるかもしれないけど、なんて言えばいいんだろうか…なんかこう…そういう感じのやつ…)

「一緒にいたい」「忘れられない」と思ってもらうには、そういう積み重ねが大事だと思う。

4月から社員として働き始める場所も、1年ちょっとはずっと業務委託で絶妙な距離感だったけど、めちゃくちゃみんな暖かく迎え入れてくれて。積み重ねってこういうことなんだなぁと。

そういうのは、待ってるだけじゃダメだ。自らアクションを起こさないといけない。

自分から動くから、巡り会える。
なんかスピってきた氣がするけど、そういう話ではない。

これは単純な言葉で表現すると、愛され続ける努力ってやつなのかもしれない。しかし単純故に難しい。

前提として、人は易きに流れる。
お金で買えない幸せを得ることは難しい。
逆に言えば、お金さえ払えば簡単に幸せになれるわけだ。(刹那的ではあるが)

だから今日も自分は「お金で買えない幸せ分だけ空いた穴」を埋めるように、マクドナルドをデリバリーしてポテトをもぐもぐしているわけなんだよ。

最後に

結局、自分が思う「お金で買えない幸せ」は、自分、あるいは他者の記憶に刻印されるものなんだと思う。

お金で買える幸せは、自分を満たすためのもの。
お金で買えない幸せは、誰かと共に一緒に刻んでいくもの。

最終的にその全部が積み重なっていく。様々な形の「幸せ」が混ざっていく様は一見混沌に見えかねないが、それはいずれ自分という存在の証明になっていく。

どっちも味わって、どっちも刻んでいきたい。

それが、今の自分が考える「幸せ」の答え。

ただ、今この瞬間だけは、マクドナルドを食べることに集中したい。ほな、いただきます。

おしり。