No.1とNo.2 ─ 光を浴びる者と、光を照らす者 その違い
光に憧れていた頃
昔から、何者かになりたかった。
以前の記事でも書いたけど、No.1になりたかった。
スポットライトを浴びて、誰もが名前を知るような存在に。
その頃の俺にとって、「存在の証明」= “光を浴びること” だった。
だから、 前に立つことが正義だったし、逆に裏に回ることは敗北に思えた。
今思えばなんとも愚かというか、若いというか。まぁそんなもんだ。
照らす側で在ることの意味
ある時期から少しずつ変わっていった。どの時期かは記憶にないが「昔に比べたら」という感覚がある。
誰かを後押しする事の快感を知った。「この人に、独りで辛い思いをさせたくない」 と、陰ながらひっそりと火を灯すことの楽しさを知った。
舞台の袖で支えたりスポットライトを他の誰かに当てることが、意外と心地よかった。
光を浴びているのは自分ではないけど、自分が応援している人が輝いている姿を見ると、自分も幸せを感じるようになった。
ある人の姿を見て、ふと思ったことがある。
「この人がいなくなったら、俺もここに居る意味は無いな。この人が辞めたら、俺も辞めよう。」 と。
そして同時に、こうも思った。
「俺も…そう思われたいなぁ…」
この気持ちは、ただの感謝でも共感でも、エモさでもなかった。
もっと根源的で人間的で、そして醜く最も野性的な むき出しの、「欲」だった。
「光を浴びたい」という、純粋な欲
裏方であることに誇りや達成感を感じる一方で、
まだ「前に立ちたい」という渇きが残っていた。
誰かの光になりたい。それはそう。それは、そうではある。
でも俺だって、誰かの光の中で照らされたい。誰かの光に照らされて、世界という舞台に影を落としたい。
なぜなら、世界に俺という影がある状態は、自分が存在している確固たる証明だから。
そう思うのは当然だ。だって昔そうだったんだから。
人間は1度まぶしい光を見てそれに憧れると、それを忘れることは決して容易ではないことを俺は知っている。
この矛盾を、何年も何年もずっと抱えてる。
「No.2でいい」「それもまた、俺の存在証明」なんて言いながら、
心のどこかで、「No.1になりたい」と叫んでる自分がいる。
欲と綺麗ごとが交差する場所
ここでは 「照らされたい」= 「欲」 として、 「誰かを照らす」= 「綺麗ごと」 としている。
そう定義しているのは、俺の中に居る「偏屈で認知の曲がった、斜に構えている自分」だ。
「照らすこと」 と 「照らされること」
それは必ずしも二項対立の姿勢を取るわけではない。
照らすほうが良い。照らされるほうが悪い。あるいはその逆もまた然り。そんな比較は無意味で非合理である。
どこかの過去の記事にも書いたが、人間は非合理に時間を費やす事が好きな生き物だ。故に人間であるともいえるが。
…話を戻すが、「照らすこと」と「照らされること」は、どちらも同じくらいに美しい。
そして、それらは共通するものがある。それが「欲」と「綺麗ごと」が唯一交差する場所だ。
どちらにも共通するのは 「欲」 である。
「この人生という舞台に刻まれたい」という、存在の欲だ。
存在とは、自分が誰かの記憶に残ること。
「君がいたから、この火が消えなかった」 と言われること。
もっと身近に言えば、「君がいたから、俺が頑張れた。ありがとう。」 と言われること。
それはきっと、舞台の上だろうが、裏だろうが、変わらない。
…いや、「舞台」という概念はそもそも、表とか裏とか、上手とか下手とか、そんなものは関係ない。
それら全部、全部をひっくるめて「舞台」だ。
No.1でも、No.2でも。No.3でも、ナンバーがなくても。
前に立っていても、影から支えていても。
俺はこの劇のどこかで、ちゃんと「いた」と言われたい。
表明と挑発
「それはあまりにも綺麗ごとだ!」と思う読者諸君もいるかもしれない。
それは認める。善性の仮面を被った俺の中にいる俺も「綺麗ごとだなぁ」と言ってる。うるさいなぁ…
大事なのは「どちらも欲する」ということ。
それは俺が飼いならそうと頑張っているむき出しの欲である。
欲を出すことは野性的か?それとも欲を出すほうが理性的か?
この話は、今自分の中で出来上がりつつある現代哲学の重要なテーマだ。
まぁこの話は、いつかしよう。
「誰かを照らす光」と「俺を照らす光」だ。
どちらでもありたいと、誰よりも貪欲に追い求める。
で、君はどうする?
光を浴びる者になりたいのか、
それとも光を照らす者になりたいのか。
それとも、君もまた、どちらも欲しいのか。
ぜひとも、君の答えを聞かせて欲しい。
もっとも、そんなことを考える暇があったら、目の前の仕事でも片付けたほうがいいかもしれないが。
期末だからね、あー忙しや忙しや。
おしり。